治験・臨床試験ポータルサイト

ああ、言っちゃった。。。

治験・臨床試験に従事される方は、この言葉に、拒絶反応を起こすかもしれません。

しかし事実なのです。

どんなに製薬企業が実施医療機関がきれい事を並べても、本質的には治験・臨床試験は、被験者の権利と利益を厳重に保護・優先した、科学的に実施される「人体実験」に他ならない。

まず、真実(現実)を認識し、真摯に向き合わなければ、何も始まりません。

そもそも、新薬候補物質に副作用がなくて、しかも疾患によく効くことが、100%確定していれば、治験・臨床試験など実施する必要はありません。

でも、そんなことはまずありえません。

また、動物実験ではたいした副作用がなくても、人間に投与してみて初めて発現する重篤な副作用は結構あります。

残念ながら、現在の我々の科学力では、新薬や新しい治療法を開発するのに、その安全性(副作用)、有効性を探索・検証するために、実際に患者や健康な人を対象にした「薬物投与試験」すなわち「治験・臨床試験」は必要不可欠な存在です。

治験・臨床試験は、なければそれに越したことはないが、でも、絶対必要不可欠な存在、つまり、「必要悪」。

マーケティング用語で、消費しないで済めばそれに越したことはない商品のことを「否定財」と呼びます。治験もそれに相当します。

そして、必要悪であると認めたうえで、現在の患者のために、また、将来の患者のために、少しでも治験・臨床試験の環境を良くして行こうというのが、治験ナビの開設趣旨です。

 
 

新薬・新治療法の開発に治験・臨床試験が必要不可欠だからといって、その参加に「ボランティア精神」を持ち出すことには私は、断固として反対します。

(ここでの、「ボランティア精神」とは、日本において古くから使われている「自己犠牲による社会奉仕の精神」を指しています)

社会に奉仕するため、つまり、社会や後世の人々のためにあなた方患者が副作用のリスクを負ってまで、犠牲になる必要など、これっぽっちもありません。

それに、たとえ皆さんが、社会のために治験・臨床試験に参加しても、残念ながら誰も感謝してくれません。副作用が発生して苦しんだとしても、「可哀想だね」の一言で終わってしまいます。

本来ならば、「社会のために自ら進んで体を「実験」に提供した」という意味において、治験参加者の方に感謝するべきですし、絶対に足も向けられないはずなのですが、世間の人達というのはそういうものなのです。

しかし、だからといって、「社会のために参加してえらい!」などと、その行為を過剰に称えることは、それこそ、ナチスや旧日本軍の行った人体実験と、どこが違うのでしょう?

「社会」という言葉が「国家」にすり変えられる確率は、過去の歴史から見ても非常に高いのです。

患者の方は、とにかく余計な事を考えずに、自分の病気を治すためだけを目的に、治験・臨床試験に参加すればいいのです。

治験・臨床試験に参加するという行為が、
結果的に社会貢献につながる、ただそれだけのことなのです。 

 
 

「治験ボランティア」という言葉は、従来の「被験者」の持つ「実験的イメージ」を嫌って、また、
《あくまでも「強制」ではなく、「自発的」に参加する「ボランティア」ですよ!》
ということをアピールするため、考え出されたようです。

確かに、「ボランティア」は、欧米などでは、「自発的」という意味で使われます。

治験・臨床試験は強制ではなく、自分の意思で、自発的に参加するもの、という意味において、「治験ボランティア」「創薬ボランティア」という単語は全く間違っていません。

しかし、 日本では、「ボランティア」には、「奉仕」「社会貢献」「無償」を意味する場合が多々あります。

「社会の一員である以上、したほうがいいもの」というイメージが、どうしても払拭しきれません。

つまり、「ボランティア」という言葉には、「一応自発的ではあるけれど半強制的なところ」があるのです。

(災害ボランティアのニュースを見ていると、何もしていない自分に罪悪感を感じるのと一緒です)

また、「ボランティア」という言葉から、治験への参加は「無償」だという誤解も受けやすいという問題もあります。

実際には、「負担軽減費」として、単なる交通費以上の金額が参加者に支払われています。

それでも、治験に参加するのは「ボランティア」によるものだから、「謝礼」は出せない、という理由で、あくまでも名目は「負担軽減費」なのだそうです。

さて、「ボランティア」の本来の定義「自発的な活動」に戻って考えれば、「ボランティア」で参加したからといって、「無償」である必要などはない、ということがわかります。

だから、「治験」に「ボランティアで」(=自主的に)参加した人に対して支払われる金銭について、「謝礼」という名称でも、実はまったく問題ないのです。

以上のような考察をすること自体、けっこう面倒くさいですよね。

私は、「治験ボランティア」よりも、むしろ、
治験参加者 (participant)」という言葉を推奨します。

「治験」は「受けるもの」ではなく「参加するもの」

誤解をまったく受けず、意味としても適切です。

「自主的」という意味が含まれていないので物足りない、と思う方もいるかもしれません。

しかし、「治験はあくまでも強制ではなく、自主的に参加するもの」という概念は、浸透してきていますし、インフォームド・コンセント取得の際に必ず説明していることです。

今さら、「自主的」という意味と、「無報酬」「奉仕」という日本的解釈を持つ「ボランティア」を使う必要はないでしょう。

できれば、治験業界では、「治験参加者 (participant)」を是非使って頂きたいものです。

ちなみに、「participant」には、「治験参画者」という訳もあります。

しかし、「治験参画者」は、何かの政策や仕事のメンバーになる感じで、不自然な印象を受けます。

 
 

< 立場による、治験の意味の違い >

「治験」は何の略語でしょう?

「治験」は「治療試験」の略だという説明がよく見受けられます。

「治療を兼ねた試験」なのか?
「試験を兼ねた治療」なのか?

言葉の順序から考えると、「治療を兼ねた試験」が正しいのでしょう。

そもそも、「治験」という言葉は、製薬企業など、新薬開発側の発想から作られたので、当然といえば当然です。

「治験」は製薬企業にとっては「試験(実験)」なのです。 

一方、患者にとって「治験」は、あくまでも「治療」であり、治療効果を期待して参加します。たとえそれが、製薬企業にとって「試験」であったとしても。

結局、製薬企業、患者のどちらの捉え方が正しいのではなく、それぞれの立場が異なれば認識も異なるのは、仕方ないと言えるでしょう。

 
 

当サイトでは、明確に患者の視点に立って、治験・臨床試験について考えていきます。

従って、治験・臨床試験は、患者(治験参加者)本人にとって、従来の治療薬・治療法では治せない疾患において、「治療の機会(可能性)」という「利益」があるべきものであり、だからこそ参加する意味があるという立場をとっています。

治験及び臨床試験を「医療行為」の一種(一手段)としてとらえ、「患者保護」の立場から、一般に立場の弱くなりがちな患者(治験参加者)を情報面で支援し、ネットという最強のツールを用いて、患者(治験参加者)の権利を主張していきます。

治験及び臨床試験へ参加することによって、患者が効果的な治療を受ける機会が与えられ、ひいては、画期的な新薬が開発され、人々が健康で幸せな生活を送れることを期待します。

重要なのは治験に関する「情報の透明化」です。情報を伝えない、隠そうとするから、治験・臨床試験への不信感が生まれるのです。

「患者中心の医療」を実現するには、まず、情報を公開することにより、患者、製薬企業、医療機関の対等かつ良好な関係を構築することが重要です。

 
 

■ 当サイトでは、単に「治験」という言葉を使って解説している場合がありますが、実際には、治験(新薬開発のための臨床試験)だけでなく、人を対象とした全ての「臨床試験」についてもほぼ当てはまります。ご注意下さい。

→治験とは?臨床試験とは?(治験FAQより)

■ JavaScript機能オンでご覧下さい。
■ 当サイトはリンクフリーです。ご自由にリンク張って下さい。

編集長:ながれおとや

バナー広告スポンサー募集中です。