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治験業界では有名な大学教授が提唱した言葉で、

製薬企業だけでなく、医療機関、国、地方自治体、そして、患者が、一緒になって、
「薬を育てて行こう!」

という姿勢を表現したもの。

「でも、患者は薬を育てている余裕なんかなのだけど」と感じるのは私だけでしょうか?

また、2003年9月8日の薬事日報の記事によれば、

育薬になると、
 私も育てていかなくては
 という自分(市民)の問題になる
(同上大学教授)

とあります。

 
 

以後の考察は、この記事に歪曲がないという前提において、全体の中での文脈(報道されていない)は不明のまま、この言葉のみから得られた私の感想に基づいています。

発言の意図と異なるのであれば、申し訳ないです。(決して、発言者の名誉を傷つける意図はありません。)

育薬になると、
 私も育てていかなくては
 という自分(市民)の問題になる

これは、患者に対する脅しでしょうか?

治験に参加しなければ、結局困るのは患者だよ、ということでしょうか?

確かに、医薬品の開発が進まなければ、治療法が進歩しなければ、最終的に困るのは患者です。

しかし、「私も育てていかなくては」というのは、まるで、治験参加を強要されているような感じがします。

患者には、治験に参加しない自由だってあると思います。

それとも私の考え方のほうが、市民(日本国民)として自分勝手なのでしょうか?

 
 

製薬企業や治験推進団体は、
「治験(臨床試験)参加の意義」の1つとして、「社会貢献」を必ず挙げてきます

しかし、
「他の、未来の患者の治療に役立てるために、自らの体を実験台として提供すること」を、患者のお手本だとして賞賛し、自発的な態度として患者に要求するのは、まさしく人権侵害の典型だと言えるでしょう。

薬が市販された後も、それによる治療データを集積し、エビデンスを活用して治療法の向上に役立てること。

それを「育薬(薬を育てる)」と呼んで推進すること自体は、賛成です。

非常に素晴らしいことです。

しかしそれは、あくまでも医療者側の役目・行為であり、医療機関・製薬企業・当局の姿勢・体制・制度として必要なものです。

患者側の行為ではありません。

「薬は患者が一緒になって育てるもの」
ではないはずです。

 
 

2003年9月8日の薬事日報によると、

日本製薬工業協会の活動を紹介する冊子「製薬協ガイド」(2003年版)の薬のライフサイクルを紹介するコーナーの中で、「育薬」という言葉が初めて正式に使われたそうです。

2003年11月の製薬協イメージアップキャンペーンのテーマにも採用するとのこと。

 
 
被験者の呼称について
治験に参加するメリットは?
 
 
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